自己紹介
プロフィール&ヒストリー
いいむれ まちこ
飯牟禮 真知子
1977年6月23日生まれ
O型
家族構成:夫、男の子2人、愛犬
尊敬する人:父(飯牟禮純比古)、がんばる人
趣味:パソコン、ボランティア、カラオケ、料理
特技:パソコン、デザイン、時短料理
出身:愛知県半田市
現在:都於郡町在住
好きな食べ物:野菜、ラムネ、海老、シャコ
呼び名:まちこちゃん、まちさん、まちねぇさん、いしのさん、いいむれさん
【最終学歴】
愛知県立半田農業高等学校 食品化学科
【就職歴】
転勤族の嫁だった為、様々な仕事につきました。(愛知県内、岐阜県、石川県、三重県など)
アイフル(株)
(株)三菱UFJ銀行
ファイザー(株)
現在は在宅でデザイナー・企画相談・広告の相談をなどを請け負っています。
★ その他過去に経験した仕事(学生時含む) ★
経理事務・イベントMCパフォーマンス・飲食店
WEB会社・金融業・薬屋
現在は、転勤しながらも内職で続けていた「デザイン」の仕事を宮崎で再度勉強しなおし、フリーランスという形でイベント広告デザインや広報・企画提案などをしています。
★ 所属している団体や役員など ★
【現在】
都於郡地域づくり協議会 企画委員会
都於郡城史文化研究会
NPO法人輪プロジェクトみやざき 広報
宮崎日伊協会 会員
芸術のひなた推進委員会 広報
宮崎県立佐土原高校 学級役員
【過去】
都於郡小学校PTA役員(広報委員)
都於郡中学校PTA役員(広報6年所属)
宮崎県サイクリング協会 広報
NPO法人しんとみの郷 広報
ひまたんママの会 代表(支援クラスママの会)
3人兄妹の一人娘
私は、愛知県半田市で、いいむれ家の長女として生まれました。
学生の頃からボランティア活動には携わる機会が多く、老人ホームに訪問したり、障がいを持った人たちとの交流会などには積極的に参加していました。
そんな中、いつも手本にしていたのは、父でした。
昔ながらの怖い父でしたが、愛知に住んでいる頃から何かと役員を頼まれ、地域貢献度の高い父でしたから、その父の背中を見ていたこともあり、ボランティアをすることが当たり前、地域貢献をすることが当たり前という価値観が自然と備わっていたのだと思います。
結婚・子どもの障がい・離婚
高校卒業後は、大手の金融機関に就職しましたが、22歳で結婚し退職、23歳の時に長男を授かりました。転勤族ということもあり、愛知県、岐阜県、石川県、三重県と東海地方を中心に、点々としたこともあり、私自身の仕事はパートが多く、転職も多かったのですが、持ち前の明るさなどを活かし、サービス業が多かったように思います。
しかし、長男が5歳になった頃、とあることをきっかけに長男に「発達障がい」があることがわかりました。
最初は受け入れがたく、信じられなくて病院を転々とし相談する毎日でした。
夫からは私の育て方などを疑われたり、遺伝だとしたらお前の…なんてことを言われることもあったりと、家族の協力が得られず、精神的にも苦しい思いをしました。
そして、追い詰められた私は、夫と別居するため、子供を連れ、逃げるように宮崎の実家に引っ越してきたのです。
貧困時代
離婚して、母子家庭になった後、宮崎での就職にとても苦労しました。宮崎にきて、療育方法も変わったし、病院の通院が・・・遠い。西都市に小児精神科医の先生がいなかったので、車で50分かけて空港近くの病院に行かなくてはいけなかったし、そのたびに仕事を休まなくてはいけない。
おまけに、次男にも発達障がいがあることがわかり、特徴の違う二人を一人で育てるのは、たやすくはなかったのです。
就職しても、子供が癇癪を起し登校拒否を起こせば仕事に行くことができない。何度も職場に遅刻の連絡、休みの連絡をいれました。その結果「うちでは雇うことができない」と、クビになることも1度や2度ではありませんでした。
働かなくてはいけない…でも、子供を置いて仕事にいけない…母子手当だけでは食べていけない…。家賃が払えない。電気や水道が止まりそう。ごはんが食べれない。でも、養育費を入れてもらえない…。今の時代には珍しいであろう程の貧困世帯だった私は、その苦しさに助けを求めることができず、何をどう頼ったらいいかわからず、とても苦労をしてきました。
10年前、そんな私の辿り着いた答えは、子供を見ながら家で働く…ということでした。
今でこそ、新型コロナウイルス感染症の影響で、在宅ワークが当たり前の環境になりましたが、家で仕事をするという選択は、当時とても賃金が安く、あまり多くありませんでした。
とにかく子供を育てなくてはいけない。必死だったと思います。
地域づくりとの出会い
地域づくりに携わりだしたのは、父の影響でした。
父が携わりだした頃、活動内容を見て、
「”都於郡をもっと知ってもらいたい”はずなのに、メディアやネットは活用しない。健康カレンダーはゴミの日がのっていて、とても便利なのに「白黒印刷」。お年寄りからしたら、カラーでゴミの日が分かれてる方が見やすいでしょ?」
そんな私の提案を聞いた父が、
「だったらお前、手伝ってみるか?」
「いいよ」
そんな簡単な始まり方でした。西都市の地域づくりでは初めてのホームページを作り、健康カレンダーもカラー制作に変え、人手不足などを考慮した提案などもしてきました。産業振興部会で作る食品加工物のパッケージシールのデザインを担当し、婚活事業ではプロフィール動画を作成、2019年には、念願の「伊東マンショの漫画」制作も行うことができました。
時代の流れに目をむけ、常に新しいことを提案し続けてきた10年。
もちろん私一人の力ではかなわないものばかり。
それでも、皆さんのお力を借りて、ひとつひとつ実行していくことができました。
突然の父との別れと約束
2020年1月、新型コロナウイルスの影響がジワジワと日本を蝕み始めた頃、父が体調不良を訴えだしたのはこの時でした。
最初はただの胃の不快感、そして食欲不振からでした。
なかなか原因のつかめないまま春を迎え、新型コロナウイルスの影響は、もう日本全国にまわっていました。
そんな中、大きな病院で検査した結果「胃癌」が見つかったのです。
開腹手術で胃の全摘出をすれば大丈夫といっていましたが、摘出することはできず抗がん剤治療となりました。
父ははっきり言いませんでしたが、もう末期だったのです。
それでも、2~3年は大丈夫だろうって言っていたのですが、その年の8月、父の容態は急変しました。
新型コロナウイルスの影響で、母以外父との面会も先生との話も叶わず、余命宣告を一人で受けた母。
叔父に連絡し、なんとか病院に掛け合い、父の容態などの説明をうけることができました。
もう2週間もない…それだけはわかりました。混乱で呆然とする母、コロナの影響で面会もままならず、父のそばにいられないと泣いていました。
でも先生が、緩和病棟ならそれができると言ってくださったので、母が寝泊まりできて、最後の1秒まで父といられるよう手配していただきました。説明のため、父の病室にいくと、見るも無残なほどに痩せた父の姿。泣きそうになりました。
しかし、母は、父に余命の話はしたくないと言っていたので、苦しむ父の耳元で、緩和病棟への説明をしました。
「それは余命わずかな人がいくところじゃないのか?」
と、父に言われましたが、
「お母さんが、自宅からここまで通うのが限界なんだよ。先生に相談したら緩和病棟ならお母さんも寝泊まりできるんだって。変わりに私が洗濯物とか運ぶからね。お父さんもお母さんもゆっくりしてね。その方がお母さんも楽ができて安心なんだって」
というと、父は安心したようにうなづきました。
「地域づくりどうなってる?まだ会長の後任が決まってないんだよなぁ」
「いいよ!ちゃんとみんなで話し合うよ!お父さんはとにかく病気を治しなよ!市議選一緒に目指すんでしょう!?」
「おーそうだったなぁ。地域のことは任せたからな」
これが、私と父が最後にした約束でした。
それからすぐに母は緩和病棟で泊まり込みの付き添いができました。
たった1日のことでしたが、二人の穏やかな最後の時間でした。
余命2週間の宣告を受け、父は1週間も待たずに…この世を去りました。
再び立ち上がる勇気
父の存在は大きかった。
父が亡くなってからはいろんな引継ぎを母と協力をしながら、父の存在の大きさを実感しました。
たくさんの役回りをしていた父ですが、病気に専念するために、病気がわかってから、亡くなるまでの4か月で、様々な役をおりていたけれど、どうしても都於郡地域づくり協議会の会長職と、区長、公民館長などは決まっていませんでした。
地域づくりについては、現在の会長である原田さんと、常日頃から連絡をとっており、原田会長も父の容態をとても気にされておりました。区長・公民館長などは、とにかく年度内は私と母と協力してやっていきました。
それでも、父を亡くした喪失感は大きく、一時、都於郡地域づくり協議会の活動などを原田会長のご配慮で休ませていただいておりました。
「今はショックだろうから、ゆっくり休みなさい。それでも、あんたは地域づくり協議会にとっては大きな戦力じゃから、あんたがいなきゃまわらんこともたくさんあっとじゃから、私としては、元気になったあかつきには、ぜひ一緒に都於郡地域づくり協議会を一緒に盛り上げていただきたい。」
そんな言葉をかけていただき、私は涙がでました。他にも私と母を気にかけて、色んな人が家を訪ねてくれたり、
父が残した私の居場所で、私を迎え入れてくれる地域の皆さん。
そんな地域の皆さんに私はたくさん励まされ、そしてまた地域活動を再開することができました。
父がやり残してきたこと、父の念願だったことが、まだたくさん残っていて、そして、約束していた、
「政治家への道」
これを果たすために、以前より一層努力しなくてはいけない。
「何も知らない」「勉強不足」というのは、代表に立つという立場において、そんな無責任な発言はないと思っている。
この数年間で私は様々な挑戦をし、自分の力を蓄えてきました。
私は自分の意志で再びたちあがることにしました。
父がいないのは、とても大きいことですが、それでも自分の意志で立つと決めたからには、父の思いと共に、頑張っていきたいと強く思うことができました。